1.国税不服審判所で定年を迎える税務職員
国税不服審判所は、国税局(税務署)から独立した国税庁の「特別な機関」ですが、「国税不服審判所に採用され、一貫して国税不服審判所に勤務し、国税不服審判所を退職する」という税務職員は全くいません。
税務職員における国税不服審判所の勤務は、「国税局(税務署)から出向して来て、数年後にまた国税局(税務署)に戻る」というローテーションになっています。
ただし、「前事務年度に税務署長として不利益処分を行い、今事務年度は審判官としてその事案の適否を審理する」ことは望ましくないため、その事案の処分権限・取消権限を共有する幹部については、権力行政である国税局(税務署)から直接着任できない(帰任できない)一定の人事上のルールがあります。
税務職員の出世双六の「上がりポスト」は大規模税務署の署長や国税局の部長であり、国税不服審判所を最後に定年を迎えることを希望する税務職員は「ほぼいない」のが実情ですが、たまに、希望するか否かはともかく、国税不服審判所において定年を迎える税務職員が存在します。
2.T塾長
私が国税審判官に任官されていた当時、行政不服審査法の大規模な改正があり、国税通則法の不服申立てに関する規定も大幅な変化を見せていました。
納税者の選択肢を増やす(権利救済の手段を採りやすくする)法改正であったことから、審査請求人を迎える国税不服審判所においても、事務手続が複雑になると同時に、新制度と旧制度の二本のタスクフォースが存在する状態にありました。
こうした環境下で、国税不服審判所における事務処理要領・各種の様式やマニュアルの改正に専従していた大阪国税不服審判所所属の国税副審判官(Tさん)がおられ、他の国税不服審判所から同じように集められた数名の担当者とともに、東京国税不服審判所において、その改訂事務のプロジェクトに所属しておられました。
Tさんは、参議院法制局に出向した経験を有し、規定関係の整備・改廃に関しては大阪国税不服審判所において随一の存在でした。
Tさんは、その特命担当の役割が一息ついて、大阪国税不服審判所に帰任され、審理部(法規審査部門)で個別事件の審理担当をされることになり、私が担当審判官の事件についても大変ご指導をいただきました。
そのTさんが、定年退官されることになり、Tさんにお世話になった職員が考えたのは卒業文集の制作でした・・・題して「T塾35年史」。
Tさんが持ち前の豊富な知識を後輩職員に披露する時に、まるで先生と生徒のような関係のように周りから見えることから、いつしか、Tさんに「T塾長」というあだ名が付くようになり、T塾長にお世話になった者で文集を作ることになったのです。
3.文章で説得する者によるユーモアのある文集
かくして、Tさんと同勤した者が昼休みや終業後の時間を利用して寄稿し、Tさんのお弟子さんのような審理部の国税審査官がとりまとめた50頁近い文集が出来上がりました。
皆さんT塾長とのエピソードの数々を関西ならではのユーモアたっぷりの文章で綴っていたのですが、
・「・・・そのような間接事実からすると、T塾の精神は、『長いものには巻かれろ、弱い者は徹底的に叩け』というように思えてなりません。」・・・福岡国税不服審判所長(前任は大阪国税不服審判所次席審判官としてTさんと同勤していた)
・「・・・また、反面、後輩でなくて良かったとも思っています(笑)。」・・・金沢国税不服審判所長部長審判官(同じく審理部総括審判官としてTさんと同勤していた)
といった肩書の方が寄稿されるなど、半分悪乗りの割には豪華な顔ぶれの文集になりました。
現在は、課税庁側(審査請求人と対立する側)である「審理課の主査」や「国税訟務官室の国税実査官」なども寄稿しており、立場の違いはあれど、やはり「同じ釜の飯」意識の強さも感じました。
かくいう私も、民間出身国税審判官として、「O橋誠一著『T塾長を師と仰ぎ』」という寄稿の中で、
「T塾長は、ご自身の溢れ出る知見を抑えきれず、私の質問内容とは直接関係のないことが多分に含まれた10倍に垂(なんな)んとする容量のコメントをもって熱く(厚く)『誤』指導された・・・」
など、60歳を迎えられた人生の先輩を茶化すような寄稿をしていました。
やはり、国税不服審判所において「文章をもって説得する」ことを職務としているせいか、みなさん文章作成が速く、かつ、書くことを厭わない方ばかりでしたが、そういった方のユーモア溢れる文章を読むだけでも、国税不服審判所において常勤勤務の機会が得られたことの興味深さを感じるのです。